8月18日の「本の場」ウェビナーでは、著名ウィキペディアン・かんたさんから、ウィキペディアやウィキペディアタウンとの出会い、図書館地域資料を活用したご自身の調査研究活動、各地の公共図書館や参加したさまざまなウィキペディアイベントのお話等、ちょっと風変わりで奥深く豊饒なご経験を伺うことができました。
中学生の頃から趣味で始めたウィキペディア編集をきっかけに文献や図書館に関心を持ち、趣味が高じて全国600館超の公共図書館で地域資料を渉猟して、消えてしまった過去の映画館の記憶を現代へ呼び覚ます活動をされているかんたさん。全国各地のウィキペディアイベントに積極的に遠征し、たまに講師役も務めながら、ウィキペディアン同士の緩やかな横の繋がりを育んでいかれるかんたさん。
今後ますます図書館にとって重要性を増してくると思われる地域資料を、こんなにも使いこなされているかんたさんの活動がもっと広く知られることを期待して、ウェビナーの抜粋書き起こしをお届けします。
みなさんよろしくお願いします。
まず、私は「かんた」と申します。私は、前々回の「漱石の猫」さんや前回の伊達深雪さんとはちょっと違う立場からウィキペディア、ウィキペディアタウンへ参加をし始めまして、その中で考えたことについて少しお話をしたいと思います。
2001年にウィキペディアというサイトが設立されました。それから20年以上が経っています。私は中学生の頃にウィキペディアというサイトを知って、最初は海外サッカーなど自分の趣味に関する編集を行っていました。2000年代の後半に入った頃、SNSではmixiのブームなどが起こっていた頃です。この頃にはまだ、FacebookやTwitterなどのSNSは普及していませんでした。で、それまでのインターネットは情報を得る手段でしたが、mixiのブームによって、情報を発信する手段として利用する人が飛躍的に増えていた時代です。私にとって、ウィキペディアの編集をするということには大きな抵抗は無かった半面、ウィキペディアというサイトの趣旨についての理解が浅いまま、SNS感覚で編集をしていたようにも思えます。この頃の私にとってウィキペディアというのは、映画を観る趣味、読書をする趣味などと同じように、趣味のひとつでした。
ウィキペディアの基本的なルールとして、必ず出典を明記するというルールがあります。また、文献をコピペして文章を作成するのではなくて、自分の言葉でまとめ直す必要があります。ウィキペディアの編集でこれらのことに慣れていたおかげで、大学で行うレポート、或いは論文の作成には大きく役立っていたように思います。
ウィキペディアを編集し始めてから大学に進学したことで、大学図書館にある豊富な文献、或いは新聞データベースなどにアクセスすることが容易になりました。また、それまで住んでいた地方都市から大都市に移り住んだことで、都道府県立図書館など大規模な図書館も利用しやすくなりました。閲覧できる文献の種類や数がぐっと増えたことで、文献を用いたウィキペディアの編集、特に郷土資料を用いたウィキペディアの編集ということに興味を抱くようになりました。
2013年には横浜市で日本初のウィキペディアタウンが開催されます。2014年には京都市で西日本初のウィキペディアタウンが開催されました。この頃の私は京都市に住んでおり、2014年末には京都市で初めてウィキペディアタウンに参加しています。オープンデータ京都実践会という団体が企画したイベントであり、この団体はプログラマ、図書館司書、ウィキペディアンなどが参加をしていました。
私はウィキペディアを趣味のひとつと捉えていたわけですが、オープンデータ京都実践会のメンバーは全く異なる考え方でイベントを企画していたことが新鮮でした。オープンデータ京都実践会という名前だけあって、オープンデータを推進するために様々な活動をしているわけです。プログラマではない一般人にとっても親しみやすいオープンデータがウィキペディアであると捉えて、意義のあるオープンデータ活動としてウィキペディアタウンを開催していたわけです。
オープンデータ京都実践会が企画するイベントに何度か参加した後、2016年には近畿地方を飛び出して、岡山県瀬戸内市や長野県伊那市高遠町のウィキペディアタウンにも参加してみました。当時の瀬戸内市立図書館には嶋田学さんという館長がおり、高遠町のイベントの運営メンバーには県立長野図書館で館長を務めていた平賀研也さんがいました。当時の私は彼らのことを知らなかったのですが、図書館の世界では嶋田学さんも平賀研也さんも知名度や影響力のある図書館員です。常に図書館の未来について考えている方であり、また、新たな取り組みとして普及していなかった段階のウィキペディアタウンを開催していたわけです。
その頃の私はウィキペディアへの興味からウィキペディアタウンに参加をしていたわけですが、さまざまな図書館員に出会う中で図書館そのものについても興味を持ち始めました。ウェブメディアや雑誌で取り上げられるような図書館、例えば東海地域でいえば岡崎市立中央図書館やぎふメディアコスモスなどを訪れてみました。また、旅行ついでに他地域の図書館、例えばTOYAMAキラリや武蔵野プレイスなどの図書館も訪れてみました。
私は図書館員ではないので、ただ館内を歩いただけでは得られる情報が多くありません。そこで、撮影許可を得て館内の写真を撮らせてもらい、また、事業年報や自治体史などを閲覧して図書館の歴史やサービスについて調べ、ウィキペディアにさまざまな図書館の記事を作成することにしました。ぎふメディアコスモスやTOYAMAキラリというのはとても華やかな図書館ですが、岐阜市にしても富山市にしても華やかな現行館ができる前は、古くて狭い図書館に市民が不満を抱いていたという歴史があります。ウィキペディアというのはインターネット百科事典であり、物事の歴史に関する文章を積み重ねていくのが基本です。過去の歴史が見えにくいインターネットの中で、ウィキペディアが果たす役割を実感した瞬間でした。
2016年には伊那市立図書館という記事も作成をしました。長野県の伊那市立図書館という図書館は、平賀研也さんが館長をしていた時代に新たな試みを行っていた図書館であり、昭和初期にまでさかのぼる古い歴史がある図書館でもあります。ウィキペディアに図書館記事を作成する、という不思議な活動を行っていた私に平賀さんが興味を持ってくださり、2017年に開催されたのが県立長野図書館におけるWikipediaLIBという企画です。この企画の主な対象者は長野県内の図書館員であり、ウィキペディアの意義やウィキペディアタウンの意義を実感してもらうための職員研修、という要素のある企画でした。
私がウィキペディアに図書館記事を作成していたのは、図書館に対して興味を持ったことがきっかけです。伊那市立図書館や瀬戸内市立図書館のようにさまざまな図書館員と出会う中で、ウィキペディアやウィキペディアタウンの意義、或いは図書館の価値を感じるようになりました。
私がいま住んでいる愛知県刈谷市という自治体には刈谷日劇という映画館があります。私は映画を観るのが趣味でして、刈谷日劇の支配人や常連客とも交流があるのですが、刈谷日劇という映画館は愛知県で最も古い映画館なのです。築50年のビルは愛知県で最も古い映画館建築ですし、会社の設立から70年という組織の歴史についても、やはり愛知県で最も古いものです。愛知県は早くからシネコンが発達していたため、シネコン以外の映画館はほとんど残っていないんですね。
2016年頃から2018年頃にかけての私は、図書館そのものに興味を持ってあちこちの図書館を訪れたうえで、その図書館について郷土資料などで調べて、ウィキペディアに記事としてまとめる、という活動を行っていました。しかしその過程で、自分が本当にウィキペディアで編集したいものは何だろう、ウィキペディアで自分に貢献できることはなんだろうと考えるようになって、全国各地の映画館についての調査を始めました。
図書館について調べた時には、調べたあとにウィキペディアに記事を作成していたわけですが、映画館については、図書館と同じようにはいきませんでした。図書館は公共施設であるため記録に残りやすく、自治体史などを閲覧すれば必ず情報を得ることができます。映画館は民間の施設であり、また現存しない場合も多いです。すでに組織や建物がなくなってしまったものについては、インターネット上にほとんど情報が残っていないし、図書館にもわずかな情報しか残っていません。
そこで、ウィキペディアではなくウェブ上の個人サイトに映画館の情報を記録する、という活動の形が固まりました。これが、現在も常に情報を更新している私の個人サイト「消えた映画館の記憶」というサイトです。戦後の日本にあったあらゆる映画館について、その開館年、閉館年、住所、正確な跡地、郷土資料における言及などを記録しています。視聴してくださっている皆さんもぜひ、子どもの頃や若い頃の記憶にある映画館についてこのサイト上で検索してみてください。私がどこか旅行に行くたびにその地域の図書館で郷土資料を閲覧してこのサイトに反映する、ということを繰り返してきた結果、これまでに訪れた図書館は600館から700館ほどになっています。
全国の図書館で郷土資料を閲覧する中で、図書館にもわずかな情報しか残されていないということを痛感するようになりました。そこで、文献の調査と同時に現地で聞き取り調査を行うようになりました。日本の映画館の黄金期は1960年前後ですので、当時20歳だった方は現在80歳になっています。60年前の記憶というのは当然薄れているし、すでに亡くなってしまった方も多いはずです。彼らから話を聞くには今しかないと思っています。
参考URL
「消えた映画館の記憶」(https://hekikaicinema.memo.wiki/)
2020年2月に国立国会図書館関西館で開催された「関西館でWikigap」というイベントが印象に残っています。Wikigapというイベントは2019年に始まったイベントで、ウィキペディア記事における男女間格差を是正しようという趣旨があります。世界中の女性の著名人に関する記事を作成したり、加筆することで女性記事を増やしていきます。このイベントは毎年行われており、この2022年も9月頃に世界のいろんな地域で開催されると思います。
一般的なウィキペディアタウンでは何人かがグループになってひとつの記事を編集しています。ですが、関西館で行われたWikigapではひとり1記事を編集することになった点が普通のウィキペディアタウンとは異なっていました。15人くらいいた参加者は、それぞれが編集したい人物を決めて、関西館にある紙の文献やデータベースなどを思い思いに使って編集したうえで、最後に全員が集まって成果発表を行いました。このスライドに出ている写真はイベント中に希望者を募って行われた館内ツアーの写真ですが、普段は見られない書庫にも入らせてもらって、左上の写真のような博士論文も見せてもらいました。
このイベントで私が編集したのは、岩波律子さんという女性の記事です。皆さんはご存じでしょうか。岩波律子さんは、神田神保町にある映画館の岩波ホールの支配人を務めていた方です。岩波ホールはこの2022年7月に閉館してしまいましたが、日本で最も有名な映画館だと言えます。岩波ホールの支配人を1990年から30年以上も務めていたのが岩波律子さんです。
この岩波律子さんの記事の作成を思いついた段階で、私はまずウェブ検索を行って、また全国紙の新聞データベースの検索も行いました。岩波さんは映画館の支配人ですから、上映作品の紹介などでメディアに登場する機会もあり、”岩波律子”という文字列自体は数多くヒットします。ですが、ウィキペディアに記事を書くためには、岩波さんの経歴や人物像がわからないといけません。岩波さんの人物記事を作成するのではなくて岩波ホールという記事に加筆したほうがいい場合もあります。
新聞データベースを検索する中で、幸いにも岩波さんの経歴を紹介しているインタビュー記事を発見できました。そうして岩波さんの記事を新規作成することを決定しました。一般的なウィキペディアタウンでは準備の都合もあって紙の文献というものが中心になりますし、他の図書館利用者との兼ね合いもあって新聞データベースを気軽に使えないことも多いのですが、関西館ではイベント用のデータベースアクセス用パソコンを準備してくれていました。
パソコンでアクセスできる言及をあらかた探し終えた段階で、関西館が所蔵する紙の文献を探し始めました。『キネマ旬報』や『シネ・フロント』などの映画雑誌で言及されているのを確認し、パソコン上から書庫出納を行いました。イベント当日に雑誌を閲覧して文章に反映できたのは、雑誌を数多く所蔵している関西館ならではのことだったと思っています。
このイベントでは、文章を書き始める前までに編集時間の3分の2程度を使いました。で、残りの3分の1の時間を使って文章の作成を行っています。そうしてできあがったのが、現在ウィキペディアで見られる岩波律子さんの記事です。一般的なウィキペディアタウンでは、題材の選定と文献の準備は主催者側がすませてしまっていることが多いです。そうしないと絶対に時間が足りないし、気になる文献があっても閲覧する前にイベントが終了してしまう可能性も高いです。この日岩波律子さんの記事を作成できたのは、文献の質・量ともに圧倒的な関西館だからこそであり、また記事を作成するのに慣れているウィキペディアンだからこそだと思っています。
参考URL
「関西館でWikigap」に参加する – 振り返ればロバがいる
(https://ayc.hatenablog.com/entry/2020/02/04/110336)
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